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初めてアニメーションを作った時の事

 最初にアニメーションを作ってから、そろそろ40年になる。

 中学の頃、T君という仲の良い友人がおり、(付き合いは現在も続いているのだが)、2年の時に組み替えで同じ組になった。その時、漫画をノートに書いていると、「その絵はおかしい」と言って来たのがT君である。T君は当時から絵が上手く、私の絵はその後もおかしいままだ。

 中学生だから、二人でノートにわけの分からん小説もどきを書いたり、漫画を描いたりしていた。製本して雑誌もどきにしたりしていたが、ワープロなどない時代で、「和文タイプが欲しい」と、文具店のショーウィンドウにある和文タイプを見ていたりしたが、なにしろ十万以上する代物なので、お年玉を総動員しても到底足りなかった。

 (後年、会社に入ってから、お客さんに古ーくなった和文タイプをもらった。早速「おおさか ふけい の あほどもえ」と打った所、T君に「これはまずいのではないか」と言われた。同じ頃、週刊朝日で似顔絵を描いていた山藤章二さんも、似顔絵に使う為、和文タイプ屋さんに「おおさか ふけい の あほどもえ」と打ってくれと頼んだ所、不審な目で見られたそうだ。

 1973年、中二から中三に上がる春休みに、「アニメーション」を二人で作ろう、という事になった。材料が要る、という事になり、当然お金がいる。その頃、小遣いは、月額いくらで決まっていたが、別に映画を観に行く時はその分をもらえる事になっていた。で、「「ポセイドン・アドベンチャー」を観に行く」と言って、映画代をもらい、その足で阪神百貨店に行った。当時、阪神百貨店には、カメラコーナーの一角に8mm機材コーナーがあり、セル、タップ、動画用紙、アニメ絵の具や童話社のアニメの入門書などを売っていた。本は、書店のコーナーで、予算の都合で、一番安い「漫画アニメーション」という小さい本を買った。別に、玄光社の8mmハイテクニックシリーズ「アニメと特撮」という本もあったが、その本はその時は買えなかったので、立ち読みした。「アニメと特撮」に紹介されている田中ヨシハルさんというアマチュア作家の8mm映画が、アニメ用品のコーナーで数千円という値段で商品として売られていた。

 動画用紙に二種類あり、プロ用は三穴、アマチュア用は二穴となっていた。「アマチュア用入門用セット」というのがあり、2穴のセルが10枚、動画用紙が50枚、金属製の2穴タップ一本、チューブ入りのアニメ絵の具セット、筆数本という内容で、「これを買おう」という事になり、映画代はアニメ用品に化けた。

 今から思えば、セル10枚でどうやってアニメーションを作ろうか、という事だが、その時はそこまで深く考えなかった。今から思えば、「セルの塗り方」を練習するキットだったのではなかったか。

 さて、その後、T君との製作打ち合わせは中々進まず、3年で組み替えとなり、別々のクラスにはなったが、付き合いはつづいていた。

 その年、高校受験を控えた夏休み、なぜか一人で「ペーパーアニメ」を作ろうと思い立った。当時文具店に「計算用紙」という白いB5の紙を縦長で綴じたものを売っていた。(まだあるかな?)レポート用紙の無地のようなものだ。これを一枚ずつ綴じから外してB5の紙にした。コピー用紙などという物をその辺では売っていなかった頃だ。なお、この無線綴じから計算用紙を外す方法については、「用紙の下の端を、お札を数える時のようにくってずらし、ゆっくりと横に引くと一回で全部外れる」という方法を後日開発した。

 用意した用紙を、事務用のパンチで穴を開けた。約200枚。

 話は、T君の「小説」を原作とした。

 トレス台はなく、下の絵を透かしながらなんとか作画した。この時、金属製の二穴タップのピンが事務用パンチの穴よりやや大きく、動画用紙を何回か抜き差しすると穴が広がって破れてくる事が分かった。この問題は、後日、事務用パンチ本体の穴を雌型とし、火であぶって柔らかくしたプラモデルのランナーを押し付け、事務用パンチの穴と正確に同じピンを作り、薄いプラバンを事務用パンチで打ち抜いてベースを作り、ベースの穴にピンを差し込んで「正確な二穴タップ」を作る事で解決した。
 動画用紙に鉛筆て下絵を描き、サインペンでトレスして、消しゴムをかけた。

 動画がなんとか出来上がったので、撮影にかかった。当時、コマ撮りの出来るシングル8カメラ フジカZ-1というのが家にあり、それを父親に借りた。撮影台は写真の引き伸ばし機のヘッドを外し、カメラを代わりに取り付けた。(この引き伸ばし機は今でも家にある。)写真の撮影は当時既にしていたので、カメラのセットと露出の設定はなんとか出来た。
 白黒の線画なので、白黒のフィルムを買った。1973年当時は、まだ8mmの白黒のリバーサルのフィルムがあった。後日「無くなる」と分かった時に、何本かまとめて購入して、冷蔵庫に入れておいたような気がする。

 カメラにフィルムを入れ、撮影開始。動画枚数を節約するため、「歩き」のシーンは、タップ穴を少しずつずらして、一ループを繰り返し使った。作画量低減のため、動画の手前に、切り抜いた前景を重ねたり、動画の一部を切り取って止めの部分を見えるようにしたりした。

 この切り抜きの作業を撮影中にやったため、ただでさえしんどい撮影作業がさらに大変になった。

 「止め」のカットも多い。ストーリーは手書きの字幕で説明する。

 数時間後、なんとか撮影が終わった時、撮影台の周辺は切り抜いた動画だのなんだのが散乱し、その横に「真っ白」になって「無口」になった作者がいた。

 片付けて、フィルムを現像に持って行く。動画用紙は全部ぐしゃぐしゃになったので、捨てたような気がする。

 約一週間後、現像が上がって来た。袋に入ったフィルムを持って家に帰り、映写機をセットしてフィルムをかける。

 出来上がった映画を観て呆然とした。まず、タイトルが無く、映画の途中から始まっている。フィルムはカセットの外に出ている部分は感光しているので、真っ白になる。それが分からなかったか、忘れたか、カセットを入れてすぐに撮影を始めた為、最初の部分が真っ白になっているのだ。
 写っている部分も、切り抜いて重ねた部分は紙が薄いので下が透けて見えたり、切り抜きした部分がはっきり写ってしまったりで、惨憺たる状況である。

 何回か繰り返して見てみたが、繰り返して見たからといって何かが変わる訳ではない。

 T君にも見せたが「うーん」という事のみだった。

 これが私の最初のアニメーション制作である。

 

アニメーションを作るという事

 昨日、(2012年11月25日)、枚方に「てれれ」の上映会を見に行ってきた。映像発信てれれ いろいろあってその会場では、観客は私一人だったのだが、上映会主催者の方と上映後話す機会があり、アニメを作る事について話をした。

 どうも世間には誤解があり、アニメーションを作る事は大変な根気がいることだと思われていて、特に、「製作は大変だが、製作が大変なだけ、作品が完成した時の喜びは大きい。」と言う誤解が蔓延しているという事を話した。

「アニメーションは製作する事自体が楽しい。だからやっている。子供がゲームを一日中やっていても、「えらいね、根気あるね。」とだれも誉めない。朝から晩までパチンコやっていても、徹夜で麻雀していても誰も誉めない。アニメーション作りも一緒だ。」と言うと、「どう楽しいのか」と聞かれる。

 「頭に浮かんだイメージを映像化するんだけど、動画をある程度描くと、その動画が動くイメージが浮かんできて、最初のイメージと合体して・・・」みたいな話をしたが、どうもよく分からないらしい。

 この「アニメーションを作る事はそれ自体が楽しい」という事は、個人で作る人だけではなく、会社で作っている人にも共通していると思える。

 10年に一度位、「夢の産業・アニメーション産業の現場はこうだ」というような記事が雑誌に載る。「長時間労働で月収2万円! 苛酷な労働現場」という記事だ。この2万円というのはアニメーターの場合で、製作進行や撮影その他のポジションではもっと普通(といってもテレビの制作下請け会社のレベル)だが。

 これを「けしからん! もっと待遇を改善しろ!」というのは簡単だ。だがもっと簡単なのは、「こんだけやって月2万なら辞めればいい。」という事だ。牛丼屋のアルバイトで一日12時間月25日働いて2万円だったら、みんな辞めるだろう。(時給840円で計算すると、25万2000円もらえる。)昔のAERAの記事だと、「バイトして金を貯め、アニメーターをやり、金がなくなったら又バイトに戻り、また金を貯めてアニメーターをする」若者の話が紹介されていた。「この仕事はいくらやってもストレスがたまらない。」それが仕事か。自分探しの世界旅行みたいだ。

 もっと普通の業界と違うのは、さすがに低賃金・重労働でどんどん辞めていっても、次から次から新人が現れる事だ。雇う側からすると、「低賃金だよ、仕事きついよ、それでも良かったらどうぞ。」と言ってあるんだから、文句を言う方がおかしい。しかも、一定以上の技量が身に付けば食べて行くだけの収入はとれるようになるが、何人入って何人辞めた、というデータは手元にないし、業界でも統計は取っていないだろうが、そこまで生き残るのはほんの少数だ。普通の会社で毎年採用している人間がほぼ全員辞めたらえらい事だが、アニメの会社では普通だ。

 ここで、正直な求人広告を出したアニメ制作会社があり、「当初1年はほぼ無給・ただで仕事が勉強できると思って入社して下さい。」と出して、おおいに話題となった。これでは会社ではなく、職業訓練校のようなものだが、ほとんどのアニメスタジオの実態がこういうものである以上、むしろすべてのスタジオがこういう風に求人した方がいいような気がする。本人も入ってビックリがないだけ幸せだろう。

 今、一時ほどではないが、アニメーター養成学校がいっぱいあり、結構の授業料を取って、1-3年間受講すると卒業させてくれて、就職先を紹介してくれる。アニメスタジオの方では、先に述べたように、「とにかく入れて、仕事させてみる。ダメだったら、本人から辞める。辞めなくても、給料は安いから、会社の経営上問題はない。」という状態なので、「就職率100% !」という事になる。(さすがにまったく絵が描けないと会社に入れないようなので、会社に入れる最低限のレベルまでは教えて卒業させているとは思う。)

 このアニメーター養成学校、大学並みに学費は高い(大学でもそういう学科がある)。授業もそれなりにちゃんとしているのだが、問題は、学校が卒業レベルに達しているとして卒業させていて、就職もちゃんとできるのだが、会社に入ってすぐにちゃんと収入が得られる人がほんの少数である事だ。他の職業ではこんな事はない。ナントカ専門学校を卒業して、就職できれば、ちゃんと給料がもらえる。(就職できなければ、就職率100%にはならない。)

 「本校は、卒業できれば、アニメスタジオに入社して、すぐに、生活できるだけの収入が得られるだけの技術を保証します。ただし、卒業できるのは入学者の10%です。また、一定レベル以下の方は入学できません。入学レベルは大体他校の卒業生と同等です。」というアニメーター養成学校はない。他の業界向けの専門学校のように、卒業後、就職できれば、ある程度の収入が得られる、というアニメーター養成学校はないのである。

 実は、この状況は業界関係者でもよく分かっていて、関係のシンポジウムなどでも、新人アニメーターの労働条件の話を聞いた事がある。だが、「この、誰でも一応入れるシステムを改変する事が本当に必要かどうか」については、「どうかと思う。」との事だった。

 ここが、「アニメーション製作の麻薬的楽しさ」とつながるような気がする。

 今の新人アニメーターの労働条件を改善するため、アニメスタジオは、採用時に、入り口で現在よりもっと厳しく選別して、アニメ業界で生き残れない人間は採用しない。また、アニメーター養成学校も、「プロで食べていけないレベルの人間は卒業させない、また、そのレベルに確実に達しない人間は入学させない。」として、入学選抜・卒業認定を厳格にすれば、今みたいに、月収2万円のアニメーターはいなくなるだろう。

 だが、それでは、この「アニメーションを作る」という楽しい事を経験できる人がほんの少数になってしまう。こいつはここで将来食べて行ける見込みがないからと言って、このアニメーションの仕事をしたい、と眼をきらきら輝かせている若者たちを、門前払いしていいものだろうか。

 また、はじかれてしまう人の中にも、実は才能のある人がいるかもしれない。(こっちが業界側の本音だろう。)

 プロとして、組織の中でアニメーションを作っている人と、個人で作品作っている人は事情が少々違うかもしれない。

 だが、「アニメ作りは面白いんだからしょうがない。」

 さらに、趣味でアニメーションを作ると、大変豊かになります。

 まず、経済的には、仕事でアニメーションをするより、普通の仕事は、断然収入が多い。

 また、精神的には、普通では出会えない人と出会ったり、(変な人もいますが、まあそれはいい事にして)、ビジネスライクでなく、本音で話が出来たりします。

 こんな楽しい事と出会えてよかった。

I'm Gonna Knock On Your Door

Imgonnaknockon

 1979年6月15日、PAF5大阪会場の一部は、アニメマニアたちの異常な熱気でつつまれていた。

 彼らが待ち受けていたのは、わずか上映時間1分ほどの自主制作アニメーション、「I'm Gonna Knock On Your Door」。あまり動かない当時の自主アニメの中にあって、BGMにぴったり合った軽快な動きと可愛いキャラクターで、この年の他会場でバカ受けしていた。(頭の絵は記憶を元に描いたもので、本物はもっと達者な絵でもっと可愛いです)

 この当時の自主アニメの音付けというと、カセットテープかレコードプレーヤーで音楽を再生しながら、映写機で映写しながら録音する、というスタイルが一般的だった。この録音というもの、映写機を途中で止めて、再スタートする度に、「ブツッ」という音は録音されるわ、映写機もプレーヤーもアナログ用の家庭用機器なので、再生・録音する度に微妙に時間が違い、頭を合わせると最後が合わない、最後で合わせると頭が合わない、たまりかねて映像の長さを調節するとあらぬ方向(前後)にずれる、というものだった。たまりかねて「大体」で妥協したり、映写しながらリアルタイムで音を作ってアフレコしたり、という惨憺たる状況で、今日のデジタル編集に親しんでいる皆様には想像もつかないだろう。

 そういう中に、この作品が登場したのである。軽快なアメリカンPOPのBGMで、かなり有名な曲なのでご存知の方も多いと思うが、「カンカンカンカン」とか、「ダダダダ」という部分がかなり多い。その「カン」ひとつひとつに動きが合っていて、最後までずれずにきちんと終わるのである。

 この作品を受け付けた関係者の当時の証言によると、「一旦出品してきてから、「どうも絵と音のタイミングが納得できない」と作品を持ち帰り、再度持って来た。最初のバージョンでも十分音は合っていたのだが」という事だった。
 この作者(重田誠・武内理能)の執念がアニメマニア達の心を打ったのか、上映終了と同時に割れるような拍手が会場から上がった。

 さて、この作品の作者、あまりに達者な絵と動きだったため、当時、「ブロの仕事ではないか」という噂もあった位であるが、その後はアニメ作品は発表していない。しかし「武内理能」で検索すると、「落葉伽藍 武内理能作品集」「草瞑花想」という2冊の写真集と画集がヒットする。あまりある名前ではないと思うので、その後はこちらの分野で活躍されているのかも知れない。

 ところで、ビデオのない当時、「この作品」が上映される事を、アニメマニア達はどうして知っていたのだろうか。

 実は、当時のPAFは、東京・静岡・名古屋・京都・大阪・神戸を巡回上映していて、6月にはすでに京都・神戸での上映がすんでおり、京都・神戸で見たマニアたちが、「もう一回見たい!」という事で大阪に登場したわけである。

 8mmフィルムというのは基本的にオリジナル一本しかなく、上映を重ねて映写機を通す度に消耗していく。なので、「すぐ近所で3回も上映するのなら、大きな会場で1回上映して、北海道とか九州とかでの上映を増やせばよいのではないか」という発想が出て来ても不思議ではない。結局、PAF終了間際になって、関西のPAF上映は神戸一カ所となり、九州・北海道での上映も実現したのだが。

地球クラブの大川くん

U-DON

地球クラブというのは、今年(2011年)4月に亡くなられたアニメーション作家、相原信洋さんが80年に東京で立ち上げた自主アニメ団体である。青山のマンションの一室を借り、毎週一回全員で集まってそれぞれの制作を行い、また各地で上映活動を展開していた。ここのOBとしては現在も活躍中の関口和博さん、横須賀令子さんがいる。

 当時相原さんは、「ばんばん作らなきゃだめだよ」と言いながら盛んに若い連中をかき集めていた。当時の大阪のアニメ塾、東京のアニメーション80も相原さんがきっかけになって出来た団体である。(最近、相原さんの周辺にいた若い方によると、今でも「ばんばん作らなきゃだめだよ」と言っていたそうだ)

 で、相原さんなり、団体の上映会が終わると、みんなで夜遅ーくまで話し込む、というのがその頃のパターンで、(話し込む、と、言うより、ほとんど相原さんが熱く語るのをみんな聞いている、という方が正しい)喫茶店でしゃべっている内に電車が無くなって全員始発まで徹夜したり、ビジネスホテルでしゃべっていて、「他の部屋の方が眠れないのでもうやめて下さい」とホテルの人に怒られたりしていたのである。

 そういう話し込みの一つで、当時のアニメ塾の代表の三吉さんとかと話を聞いていると、相原さんが、「最近、大川くんというのが地球クラブに入って来て、すごいんだよ。セルを置き換えるんじゃなくて、どんどん積み重ねていくんだよ。」という話をしたのである。相原さんがすごいというんだからすごいんだろう。

 いざ実際の作品を観てみると、セルにペイントマーカーで描いた絵がどんどん積み重なって行く。パソコンのレイヤーとは違い、実物のセルは透明とはいえ厚みがあるから、積み重ねれば積み重ねるほど下のセルはだんだん暗くなって沈みこんでいく、という効果になる。「なるほど、この手があったか」という手法だった。

 それとは別に描きアニメもあり、画面一杯にかきなぐったような絵が、画面一杯にぐちゃぐちゃに動き続ける、という凄まじい作品で、今ならそう珍しくはないが、当時は非常に斬新な感銘を受けた。

以下に資料から、大川くん(フルネームは大川比呂之さん)の作品タイトルを紹介する。(年数は
制作年ではなく、上映された年)

MIED YOUR EYE(82年 神戸の地球クラブ アニメランドで上映)
トラウマ(82年 神戸の地球クラブ アニメランドで上映)
イダム(83年 京都の地球クラブ アニメランドで上映)
イダム2(83年 大阪の地球塾 アニメワールドで上映)
U-DON(84年 神戸のアニメーション80上映会で上映)
イダム3(84年 ユーロスペースのアニメーション80上映会で上映)
デージ(85年 アニメーション80上映会で上映)
Back Drop(86年 ピアアニメサマーフェスで上映)
イダム4(88年 アニメーション80フィルムショーで上映)

とにかく、ぐっちゃぐちゃの絵が画面せましと動き回るエネルギッシュな作品群である。

この「大川くん」に初めて会った時の印象は、「あっ、Dr.マシリトだ」である。(「Dr. マシリト」というのは、当時非常に人気のあったマンガ、「Dr.スランプ」の敵役の科学者で、少年ジャンプの担当編集の鳥島さんという方の似顔絵がそのままキャラになっていたのである。)作風はぐしゃぐしゃだが、本人は温厚な好青年、という感じだった。当時「大川くん」は地球クラブの上映会の世話役のような事をしていて、私の所属していたアニメ塾との合同上映会などの件でしばしば電話でやりとりをしていた。

 で、ある日「大川くん」から電話がかかってきた。「今、イベントのバイトで来ているんで、来ませんか」「あー、はい、どのへんですか」「名古屋の駅前です」
 おっと、こっちは大阪なんですけど。東京の人から見ると、名古屋も京都も大阪もすぐ近くに見えるんだろうか。とはいえ、ほいほいと、高速バスで出かけて行ったこっちもこっちだが。

 そのイベントは、中島興さんがからんでいた現代アートのイベントだったように思う。「大川くん」は、「知ってる人が誰もいないんです。」との事だった。めしを一緒に食べて、バスで帰りました。

 その後、「大川くん」は地球クラブからアニメーション80に移籍して、90年頃まで活動していた。現在は自主制作は作っていないようだが、才能のある方だったので、どこかのプロの現場で活躍されているのではないかと思う。

 さて。話は、80年代初めに戻る。最初に「大川くん」の作品を観てから、しばらくして、相原さんの上映会があり、アニメ塾の三吉さん他と観に行った。
 
 相原さんの新作が「ぐっしゃぐしゃ」になっていた。

 「これ、大川くんの影響かなあ」と、三吉さんと顔を見合わせて話したものだ。

 ここ10年位に相原さんの作品を観だした人には分かりにくいかもしれないが、初期の具象的な切り紙アニメから、70年代後半の「妄動」あたりより、相原さんの作風は、端正な鉛筆画のなめらかな抽象アニメに向かった。(別に実験映画の系列もあるけれど)「カルマ」あたりでは作風が確立された感があり、フルカラーの「水輪」などを観ていると、「相原さんの作風はこうなんだ」と思わせるものがあった。

 それがいきなり「ぐっしゃぐしゃ」になったのである。その後も、「Wind」のような端正な抽象作品も発表されていたが、この「ぐっしゃぐしゃ」の系統の作品の方が量的には多かったように思う。

 この「ぐっしゃぐしゃ」原因がほんとに「大川くん」の作品にあるのかどうかは、当時、相原さん本人に、「これ、大川くんの影響ですか」と聞く訳にもいかなかったので、ほんとの事は分からないのだが。

 90年頃より「大川くん」の自主作品の発表はなくなったが、相原さんはその後も「バンバン作んなきゃだめだよ」と言い続け、また、ご存知の通り精力的に制作活動を続けた。そして、相原さんの作品に魅かれてアニメーションの門をくぐった人はいっぱいいる。

 と言う事は、この「大川くん」は本人も知らない内に、日本の自主制作アニメーションに大きな影響を与えていた事になるのかも知れないのである。

 

失われた世界

こんな感じの画面でした

こんな感じの画面でした

 1970年、村上修平作品、17分37秒。1980年、PAF6にて上映。PAF上映に際し、若干の撮り足しをした、との事。

 アーサー・コナン・ドイルの「ロスト・ワールド」の自主アニメ化。制作年月日と作風からすると、70年代後半の自主アニメ世代ではなく、小型映画の系統の方らしい。

 切り紙アニメで、明快な話である。特に恐竜の動きに質感があるとか、カット割りが大胆という事も無く、普通に話は進んでいく。絵柄は、劇画風でなくマンガチックで、今で言うとしりあがり寿風だが、ヘタウマではなく、リアルに一生懸命描いて結果としてそうなっている、という絵だった。

 のだが、上の絵にある、「登場人物が手前を指差す所を極端な遠近感で描く」カットがやたらと印象的だった。

 会場に来られていた今泉晶彬さん(当時は幻覚工房の今泉了輔さんだった)は、映像の事に関してはとてもきびしい方だったが、上映後、この「指差し」の物まねをしながら、「これ、これやからね」と大笑いしていた。(後で「作品としては失敗作やね」と付け足されていましたが)

 70年当時は恐竜映画(怪獣映画ではない)がほとんどなく、欲求不満から自分で作ったという コメントだったが、なるほど恐竜大好き、という事はよくわかる映画だった。作者の方、ジェラシック・パークが公開された時は、恐竜初登場の場面で、映画に出てくる恐竜博士と同じ顔になったのではないでしょうか。


プロフィール

かにの社長

Author:かにの社長
1974年頃より自主制作アニメーションを作り続けています。自称「自主アニメの岩田鉄五郎」、最長不倒記録を更新中。

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