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相原信洋さんの思い出 その3 最後の夏 そして

相原1987

 1978年のアニメ塾より、あっという間に30年が過ぎた。その間に数知れぬ上映会があり、飲み会があった。途中から相原さんは東京と京都を往復する生活をされていて、さらに函館にも住まいを借りて、ワークショップをされ、函館山で上映イベントをされていた。これが、「アニメーション・ファクトリー」の始まりらしい。

 この函館山での上映イベントに拙作「アニメのアニメ」(2005)を貸して欲しい、という話を相原さんからいただき、「おおっ」と思って、はいはいはい、のはいはい、とお貸しした。

 函館の皆さんに「面白い〜っ」て受けていた、という話を後で聞かせていただき、相原さんは「ピンポーン」とポーズを取ってみせてくれた。

 この作品は、人形アニメーションを作っている男が、製作に乗ってくる度に、ドアの「ピンポーン」に呼び出されて再々邪魔をされ、最後に怒り狂って相手を撃ち殺す、という話である。

 そういえば、京都に来られた頃、「京都はいいよ、小谷君」と言われて、「東京だと、すぐに飲みにいきましょう、というような誘いが来て、ゆっくりアニメも作れないんだけど、京都だと誰も誘いに来ないから、いくらでもいつまでも描いていられるんだ」とおっしゃられていた。

 もっとも、京都でも時間が経つと「飲みにいきましょう」という方が増えるのは自然の摂理で、函館に家を借りられたのは、これを回避して作品制作に専念する時間を増やすためだったのではないか、と、後日思うようになった。

 この「乗ってきた時に邪魔が入るとめっちゃ腹が立つ」という経験はある方もない方もあるだろうが、邪魔をした側からすると、「何をそんなに怒っているのか」と思われるかもしれないが、とにかく「乗っている時には邪魔をされたくない!」という思いを持たれる方は多少は判っていただけるだろう。

 さて。

 時は更に過ぎて、2008年11月、神戸映画資料館で、相原さんのほぼ全作品上映と、ライブペインティングがある、という事で、「おおっ」と出かけていった。昔はしょっちゅう相原さんの16mm上映会があったような気がするが、何年か無かったような気がする。また、「カルマ」が観れる。

 昔、「カルマ」出来上がった頃、上映会で相原さんは「もう少し作品が貯まったら、全国をフィルムを担いで上映会をして回る生活をしたい。「観たい」という人がいるんだもん。」と言っていたが、結局その思いは叶わなかった。というのは、「観たい」という人がいなかった訳ではなく、「作品を観せて回りたい」というよりも「作品をもっと作り続けたい」という欲求の方が強くて、作品作りの手を止めて上映会に専念する、という事が出来なかったんだと思う。

 相原さんの京都での助手をされていた方に聞いた話だが、昔は「なんで皆は作らないんだ」と怒っていた相原さんですが、「最後は「自分の方がおかしい」という事に気づいていたようです。」との事だった。

 この上映会、昔「「カルマ」をフルカラーで今度作るんだ」と言っておられた意欲作「水輪」のフィルムが「行方不明!!」(ああ、このアバウトさが相原さんだな)とか、「発見されて無事上映」とかあったが、「カルマ」は何事も無く無事上映されて、「ああ、もう一度フィルムで観れてよかった」と思った。

 が、イベントの合間に相原さんと「ごぶさたしております」とか少し喋っていると、後から知り合いから「小谷さん、相原さんと「普通に」しゃべってはりますねぇ」と言われてしまった。

 それは、相原さんは広島フェスの選考委員で大学の学部主任で世界的映像作家で、こっちはただのサラリーマンのアマチュアの作家ではありますが。

 そして、2010年。偶数年は、広島フェスの年。相原さんは、昔「広島でなんかやるらしいねぇ」と言ってたのもつかのま、「フレーム・イン」の主になっていた。

 この「フレーム・イン」というのは、フェス参加者が自由に自分の作品を持ち込んで上映するスペースで、入場無料だったので、昔は大いに賑わって、上映枠の取り合いになる位だったが、最近は本プログラムが過剰に充実して、朝から晩まで観ても全部見切れない位になってしまったので、参加者もそこまで手が回らず、やや閑散となっていた場所である。

 ここには「20円」のセルフサービスのコーヒーコーナーがあって、アニメ鑑賞に疲れた私はしばしば「20円」のコーヒーを飲みながら、アマチュア作品に心の癒しを求めていた。

 相原さんは相原さんで、「閑散」となっていたのを幸いか、コンペ入選の作家の方を呼んでは、普通の上映とは別に「Q&A」コーナーを作って、会場を盛り上げておられた様だ。

 そして。

 2010年、大ホールで、相原さんは南米から来られた若いアニメ作家の方を連れて会場を歩いておられた。ばったり出会った私は、カタコトの英語で、南米の作家の方に挨拶をして、「これ、私の作品です」と、自分の作品集のDVDをその若い南米の作家の方に渡した。(広島には、作品集のDVDを持参して、何かの度に贈呈する事にしています。原価40円位だし。)
 すると、相原さんが、
「小谷君、僕にも下さい。僕も、僕のを上げますから。」
 と言われたのである。はいはいはい、のはいと差し上げた。「僕の」は、後で、田名網さんと共作のDVDをちゃんといただいた。

 「おい、自慢かよ」と言われると、今回は純粋に自慢である。大阪府立労働センターでぼろかすに言われてから32年、コツコツと作りつづけけたのだから、ちょっとは自慢させてほしい。

 翌2011年、3月、京都シネマで、京都造形芸術大学の通信教育のアニメーションの卒展があった。京都シネマに行くと、相原さんがおられた。

「ああ、小谷君」と言われて、二言三言お話したが、あまりお元気のない様子で、「体調が良くないのかな」と思った事は覚えている。

 別に、ちょっと前に若い作家志望のの方から、「あの、おじいちゃん」と言われて、若い方からは相原さんもそう見えるのかな、と思った事もある。

 これが、最後にお会いした相原さんとは、まさか思いもしなかった。

 5月1日、日本アニメーション協会の小出会長より、メールが来ていた。「相原信洋氏逝去について」というタイトル。

 「えっ、はあっ、何っ!」とあちこちからメールのやりとり、「相原さんと親しかった方と聞いていますが」という方とのやりとりも含めてばたばたしつつ、「自主制作アニメーションの半分が無くなった」という実感がじわじわとしみてきた。

 その後の、京都造形芸術大学でのお別れの集いやら、「U-ストリーム」での追悼番組などを観ていると、「そんなんが好きやったら、言ってくれたらなんぼでも裏ビデオあったのに」と言ってしまう自分もある。(それが判らなかったのが「ダメ」と言うことか!)

 と、言いつつ、本日も動画をちょろちょろと描いています。この病気は治らない。

 写真は1987年頃の上映会の飲み会の相原さんです。


 




 


 
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かにの社長

Author:かにの社長
1974年頃より自主制作アニメーションを作り続けています。自称「自主アニメの岩田鉄五郎」、最長不倒記録を更新中。

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