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相原信洋さんの思い出 その2 アニメ塾'78

アニメ塾78

 さて、今でもそうだが、上映会場や、映画館の入り口近辺には、上映会の案内チラシなどがずらりと置いてある。インターネットの無い時代には誠に貴重な情報源で、「プガジャ」などの情報誌には、上映会タイトル、日時、料金、会場、料金、連絡先の電話番号位しか書いていないので、上映作品の簡単なスチルや解説のついているチラシは誠に貴重なものだった。当時のチラシは、ちゃんとしたスポンサーのついたカラーオフセット印刷から、ガリ版、コピー、はてはジアゾの青焼きまであった。

 その中に、上記のハガキのようなチラシ(もっと大きなオフセット刷のパンフレットのチラシもあった。)が良く見かけられるようになった。「相原信洋 実践アニメ塾 78夏」6月24日説明会。

 その頃、私は大学二年生で、8mmフィルムによる自主制作アニメーションは中学生の頃から作っていたので、最低6年間くらいの制作経験はあったことになる。だから、こういう「初心者の為の講座」をわざわざ受講する必要があるのか、という疑問もあったが、説明会は無料という事もあって、当日会場に足を運んだ。

 会場は、自主上映会場としておなじみ梅田・北市民教養ルーム。現在はエストの横にあるが、当時は閉校になった小学校の建物をそのまま流用したものだった。

 会場に入ると、なぜか高校の同級生がいて、「ありゃ、武藤君ではないですか?」と声をかけると「小谷君ですね」と言われた。この武藤君とは、その後、アニメ塾活動を通じて長い付き合いとなった。アニメ塾を企画・主催された今泉さんとのつながりで、お手伝いをしていたとの事だった。

 さて、説明会が始まって、日程の説明やら内容の説明やら、相原さんの作品上映もあったように思う。いろいろな話の内容は詳しくは覚えていないが、相原さんの「皆さんは、私のライバルでもある訳で・・」という言葉は鮮烈に覚えている。なぜなら、その一言で舞い上がってしまい、速攻で受講を決めてしまったからだ。

 その日、説明会に来ていた方々全員が「この一言」で、舞い上がった訳ではないと思う。単純にアニメーションの技術を学びに来られた方もいた。しかし、あの頃、相原さんが各地で開かれていた上映会を観に来られた方々の多くが全国のあちこちで「舞い上がって」いた事は容易に想像できる。この頃、あちこちで「舞い上がった」方々は、現在作家として活動されていたり、大学で教鞭をふるわれている方の中に多くいるはずだ。

 さて、8月20日に講座は始まる。受講生は総勢31名。学生ばかりではなく、社会人の方もかなりいた。私は、手製のトレス台を、標準の動画用紙が使えるサイズに改造して参加したが、多くの方は「三起社」製のトレス台を主催の方の手配で購入されていた。この「標準」の動画用紙、というもの、今まで「B5」の紙にパンチで穴をあけ、手製の2穴タップで作業をしていた私にとっては、「大きいな」という印象だった。この時初めて使った三穴タップは、「これは使いやすい」と思った。2穴タップは、穴に力がかかるとすぐに紙が破れたり、抜き差しを繰り返すと穴がふにゃふにゃになったりしたが、3穴タップはそういう事が起こりにくい。

 講座は、自主作品の制作と、相原さんによる基礎動画技術の講習、という二本だてのものだった。動画技術に関しては、「線の引き方」から、ものの動かし方のパターンなど。自主制作、は、セルにトレスしてのセルアニメはとても間に合わないので、動画用紙に全部書き込む「ペーパーアニメ」で制作してください、というものだった。

 主催の今泉さんは、仕事が終わると、会場に駆けつけてこられていた。相原さんは講師だから、毎日来ておられた。当時、相原さんはOH!プロダクション所属のプロのアニメーターだった。アニメプロというのは今でも昔でも毎日長時間労働の修羅場で、「締め切りに間に合わない!」「もう死にそう」などと悲鳴が飛び交う場所である。相原さんがこちらに来られる時、進行の方が「相原さん、後どのくらい行けますか!」と言われて、相原さんは「ああ、ぼく明日から大阪なので」と応え、進行の方がひっくり返ったそうだ。「あれ、どうなったんでしょうねぇ」と言っておられたが・・・

 「ちょっと、行ってきますので、後はよろしく」は、ここから始まったのかもしれない。

 さて、講座期間は、8月20日から27日までの8日間。期間は、運転免許の合宿講習のようなものだが、会場は昼から取ってあるが、社会人の方は夜からの参加だから、到底作品作りは間に合わず、結局、期間が終わってから、完成した動画を今泉さんに送って撮影してもらう、という事になった。私は学生でちょうど夏休みだったので、アルバイトを休んで毎日昼間から参加していた。動画は経験があったので、とっとと描いていると、相原さんが見て「速いね。」と言われて、私はさらに舞い上がった。

 この時の、動画基礎技術の講習内容については、現在京都造形芸術大学で講師をしている山元さん(当時)が、きちんとしたノートを残しておられて、後日の自主講座時には大変参考になった。自主制作をしながら、作画がしやすいように工夫した方法が「タップ割り」として、プロの方も使っている方法だ、と知った時はこの時だ。

 会場は、北市民教養ルームの他、中之島の中央公会堂の会議室も使ったと思う。

 さて、講座が終わってしばらくして皆の作品も大体出来上がったので、完成試写会が開かれた。確か一般の方にもオープンな上映会であったかと思う。この上映会後、みんなで集まって「やろうぜ」という事になった。主催の今泉さんも、皆にやってもらいたかったようである。京産大アニメ研から受講に来ていた三吉さんを代表にして、「アニメ塾」が、グループとしてスタートした。異様な熱気で、ほぼ受講生全員が参加したと思う。相原さんも、「この連中がばんばん作品を作ってくれる。」と期待していたようだ。

 ところが。

 アニメ塾第一回の集まりが、大阪府立労働センターの視聴覚室(リアプロジェクションの映写設備付きで、結構高かった)で開かれた時、参加人数は半分くらい、作品もあまり出来ていなかった。私は中学生の頃から作りためた作品を持っていったが、東京から来てくれていた相原さんに「こんなのダメだよ」とケチョンケチョンに言われた。

 「こんな頭がくるくるなったキャラクターのおんなじアニメばかり作っていても駄目だ。(頭のくるくるなったキャラクター、というのは、このブログの自画像みたいなキャラ。当時、「かいぶつ宝島」という作品に出していた。)何十年も同じ作品作ってる8mmアニメの人と同じだ」(この、8mmアニメ、というのは、当時の雑誌「小型映画」に載っているようなアニメ、という意味。)今泉さんにも「小谷さん、相原さんの言う通りですよ。」と言われた。

 そもそも「作品があまり出来ていない」という事に相原さんだいぶ怒っていたらしく、アニメ塾に東京から受講にきていた政木さんという方が、「東京に帰ってから怒ってましたよ」と後で教えてくれた。今から思えば、ぼろかすに言われたのもそのせいもあるかも知れない。(そんな事はないか)

 この「頭がくるくるなったキャラ」は、その後しばらくして私の作品から姿を消し、「触感シリーズ」5作品を経て、1999年に、事実上現在までの私の最高傑作「面喰い」の主人公として復活する。(この、「面喰い」という作品、大変良く出来ているのだが、ご覧になられた方はご存知と思うが、同時に大変「困った」作品である。最高傑作が「困った」作品、というのは、まことに困った事だ。(作者が「困った奴」と言う事か)) 
 ほら、「頭のくるくるなったキャラでも、ちゃんと作品は出来たではないか」と言っても、相原さんは覚えておられなかっただろうな。当時、そんな怖い事は言えなかったが。

 「作品を作ってない」という事に関しては、講座が8月に終わってからまだ三ヶ月くらいで、メンバーの久しぶりの顔合わせ、という意味のあっての集まりだったから、出来てなくても普通だとは思うのだが・・・

 翌年、第一回の「アニメ塾」上映会の時には、残ったメンバーがそれなりの作品を作って出品したので、これも政木さんの情報だったたと思うのだが、相原さんは「やっぱり、作っていたんですねぇ」とご機嫌を直されていたそうだ。

 この「アニメ塾」、1985年頃に活動を停止するまで、数年感、関西地区で活発に作品制作・上映活動を続ける事になる。その後については、また後日。
 
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かにの社長

Author:かにの社長
1974年頃より自主制作アニメーションを作り続けています。自称「自主アニメの岩田鉄五郎」、最長不倒記録を更新中。

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