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地球クラブの大川くん

U-DON

地球クラブというのは、今年(2011年)4月に亡くなられたアニメーション作家、相原信洋さんが80年に東京で立ち上げた自主アニメ団体である。青山のマンションの一室を借り、毎週一回全員で集まってそれぞれの制作を行い、また各地で上映活動を展開していた。ここのOBとしては現在も活躍中の関口和博さん、横須賀令子さんがいる。

 当時相原さんは、「ばんばん作らなきゃだめだよ」と言いながら盛んに若い連中をかき集めていた。当時の大阪のアニメ塾、東京のアニメーション80も相原さんがきっかけになって出来た団体である。(最近、相原さんの周辺にいた若い方によると、今でも「ばんばん作らなきゃだめだよ」と言っていたそうだ)

 で、相原さんなり、団体の上映会が終わると、みんなで夜遅ーくまで話し込む、というのがその頃のパターンで、(話し込む、と、言うより、ほとんど相原さんが熱く語るのをみんな聞いている、という方が正しい)喫茶店でしゃべっている内に電車が無くなって全員始発まで徹夜したり、ビジネスホテルでしゃべっていて、「他の部屋の方が眠れないのでもうやめて下さい」とホテルの人に怒られたりしていたのである。

 そういう話し込みの一つで、当時のアニメ塾の代表の三吉さんとかと話を聞いていると、相原さんが、「最近、大川くんというのが地球クラブに入って来て、すごいんだよ。セルを置き換えるんじゃなくて、どんどん積み重ねていくんだよ。」という話をしたのである。相原さんがすごいというんだからすごいんだろう。

 いざ実際の作品を観てみると、セルにペイントマーカーで描いた絵がどんどん積み重なって行く。パソコンのレイヤーとは違い、実物のセルは透明とはいえ厚みがあるから、積み重ねれば積み重ねるほど下のセルはだんだん暗くなって沈みこんでいく、という効果になる。「なるほど、この手があったか」という手法だった。

 それとは別に描きアニメもあり、画面一杯にかきなぐったような絵が、画面一杯にぐちゃぐちゃに動き続ける、という凄まじい作品で、今ならそう珍しくはないが、当時は非常に斬新な感銘を受けた。

以下に資料から、大川くん(フルネームは大川比呂之さん)の作品タイトルを紹介する。(年数は
制作年ではなく、上映された年)

MIED YOUR EYE(82年 神戸の地球クラブ アニメランドで上映)
トラウマ(82年 神戸の地球クラブ アニメランドで上映)
イダム(83年 京都の地球クラブ アニメランドで上映)
イダム2(83年 大阪の地球塾 アニメワールドで上映)
U-DON(84年 神戸のアニメーション80上映会で上映)
イダム3(84年 ユーロスペースのアニメーション80上映会で上映)
デージ(85年 アニメーション80上映会で上映)
Back Drop(86年 ピアアニメサマーフェスで上映)
イダム4(88年 アニメーション80フィルムショーで上映)

とにかく、ぐっちゃぐちゃの絵が画面せましと動き回るエネルギッシュな作品群である。

この「大川くん」に初めて会った時の印象は、「あっ、Dr.マシリトだ」である。(「Dr. マシリト」というのは、当時非常に人気のあったマンガ、「Dr.スランプ」の敵役の科学者で、少年ジャンプの担当編集の鳥島さんという方の似顔絵がそのままキャラになっていたのである。)作風はぐしゃぐしゃだが、本人は温厚な好青年、という感じだった。当時「大川くん」は地球クラブの上映会の世話役のような事をしていて、私の所属していたアニメ塾との合同上映会などの件でしばしば電話でやりとりをしていた。

 で、ある日「大川くん」から電話がかかってきた。「今、イベントのバイトで来ているんで、来ませんか」「あー、はい、どのへんですか」「名古屋の駅前です」
 おっと、こっちは大阪なんですけど。東京の人から見ると、名古屋も京都も大阪もすぐ近くに見えるんだろうか。とはいえ、ほいほいと、高速バスで出かけて行ったこっちもこっちだが。

 そのイベントは、中島興さんがからんでいた現代アートのイベントだったように思う。「大川くん」は、「知ってる人が誰もいないんです。」との事だった。めしを一緒に食べて、バスで帰りました。

 その後、「大川くん」は地球クラブからアニメーション80に移籍して、90年頃まで活動していた。現在は自主制作は作っていないようだが、才能のある方だったので、どこかのプロの現場で活躍されているのではないかと思う。

 さて。話は、80年代初めに戻る。最初に「大川くん」の作品を観てから、しばらくして、相原さんの上映会があり、アニメ塾の三吉さん他と観に行った。
 
 相原さんの新作が「ぐっしゃぐしゃ」になっていた。

 「これ、大川くんの影響かなあ」と、三吉さんと顔を見合わせて話したものだ。

 ここ10年位に相原さんの作品を観だした人には分かりにくいかもしれないが、初期の具象的な切り紙アニメから、70年代後半の「妄動」あたりより、相原さんの作風は、端正な鉛筆画のなめらかな抽象アニメに向かった。(別に実験映画の系列もあるけれど)「カルマ」あたりでは作風が確立された感があり、フルカラーの「水輪」などを観ていると、「相原さんの作風はこうなんだ」と思わせるものがあった。

 それがいきなり「ぐっしゃぐしゃ」になったのである。その後も、「Wind」のような端正な抽象作品も発表されていたが、この「ぐっしゃぐしゃ」の系統の作品の方が量的には多かったように思う。

 この「ぐっしゃぐしゃ」原因がほんとに「大川くん」の作品にあるのかどうかは、当時、相原さん本人に、「これ、大川くんの影響ですか」と聞く訳にもいかなかったので、ほんとの事は分からないのだが。

 90年頃より「大川くん」の自主作品の発表はなくなったが、相原さんはその後も「バンバン作んなきゃだめだよ」と言い続け、また、ご存知の通り精力的に制作活動を続けた。そして、相原さんの作品に魅かれてアニメーションの門をくぐった人はいっぱいいる。

 と言う事は、この「大川くん」は本人も知らない内に、日本の自主制作アニメーションに大きな影響を与えていた事になるのかも知れないのである。

 
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失われた世界

こんな感じの画面でした

こんな感じの画面でした

 1970年、村上修平作品、17分37秒。1980年、PAF6にて上映。PAF上映に際し、若干の撮り足しをした、との事。

 アーサー・コナン・ドイルの「ロスト・ワールド」の自主アニメ化。制作年月日と作風からすると、70年代後半の自主アニメ世代ではなく、小型映画の系統の方らしい。

 切り紙アニメで、明快な話である。特に恐竜の動きに質感があるとか、カット割りが大胆という事も無く、普通に話は進んでいく。絵柄は、劇画風でなくマンガチックで、今で言うとしりあがり寿風だが、ヘタウマではなく、リアルに一生懸命描いて結果としてそうなっている、という絵だった。

 のだが、上の絵にある、「登場人物が手前を指差す所を極端な遠近感で描く」カットがやたらと印象的だった。

 会場に来られていた今泉晶彬さん(当時は幻覚工房の今泉了輔さんだった)は、映像の事に関してはとてもきびしい方だったが、上映後、この「指差し」の物まねをしながら、「これ、これやからね」と大笑いしていた。(後で「作品としては失敗作やね」と付け足されていましたが)

 70年当時は恐竜映画(怪獣映画ではない)がほとんどなく、欲求不満から自分で作ったという コメントだったが、なるほど恐竜大好き、という事はよくわかる映画だった。作者の方、ジェラシック・パークが公開された時は、恐竜初登場の場面で、映画に出てくる恐竜博士と同じ顔になったのではないでしょうか。


プロフィール

かにの社長

Author:かにの社長
1974年頃より自主制作アニメーションを作り続けています。自称「自主アニメの岩田鉄五郎」、最長不倒記録を更新中。

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