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相原信洋さんの思い出 その4 怒りのアイちゃん

怒りのアイちゃん

 「その3」で、相原さんがアニメ塾のみんなが作品を作っていない事に怒っていた、と書いたが、その頃の相原さんはよく上映会をしていた。

 相原さんの上映会には、いつも人がたくさん来ていた。そして、「こんちは、アイハラです。」という挨拶から始まって、ちょっとしたトークがあり、上映があって、最後に相原さんのトークがあって終わっていた。

 相原さんのトークは、記憶によれば、「自分の作品を作らないとダメだ。CMとか、TVアニメとか、いくら絵を描いて、あれは私の描いた絵です、と言っても、それは他人の作品で、自分の作品ではない。」という話を基調にして、作品を作っている人の話やら、昔作っていて今作っていない人の話やらだった。このあたり、上映会のトークと、上映後の飲み会の話がごちゃごちゃになっているのだが、大きく間違いではないと思う。

 「TVアニメはダメだ。」というトーンもあったように思う。また、上映会には、作家が来ないとダメだ、とい事も言っておられて、「だから、僕はいつも自分の上映会は自分でやるんです。」というような発言もあったと記憶している。

 さて、どこの上映会かは記憶が定かではないが、多分関西での上映会だとは思う。(自分が行っていたので)上映後、例によって観客は皆残っていた。そこで、出てきた相原さんは、いつものトークを始めるのかと思いきや、「何ですか。何を待ってるんですか? また、TVアニメの悪口が聞きたいんですか。」と、やや、怒った口調で言われたのである。その後、いつものトークがあったのかどうかは、記憶が定かではない。

 要は、「作りもしない連中が、TVアニメの悪口を面白がって聞きに来ている」という事について、(これは、ある程度当たっている)怒られていたのだろう。「俺がこんなに一生懸命やっているのに、あいつらは何だ。」

 まあ、キリストや仏陀でも怒った事はあっただろうし、自主制作アニメーションの布教者の第一人者である、相原信洋氏がたまに怒っても当然かもしれないが、この日は意外な感じがした。

 さて、時は過ぎ、東京と京都で相原さんは「アニメーション・ニューウェーブ」という上映イベントを行っていた。何回目かの京都会場・京都書院ホールで、上映の運営に当たっていたヴォワイヤン・シネマテークの方に、相原さんが怒っていた。「なんで作った連中がこないのよ。」「作家の方々には連絡したのですが」「あんな学生なんか、作家じゃないよ!」怒られていたのは、ヴャワイヤンの平田さんだったと思う。

 「作家は、上映会の会場にいるべきだ」という心情の相原さんとしては、「作った連中が作品だけ送って、顔を出さない」という事は許せなかったのかもしれない。

 さて、京都造形芸術大学で教鞭を取るようになった相原さんは、ある飲み会(黒坂圭太さんの結婚式の二次会のように思う)で、若い学生達に怒っていた。「君たちは、幸せだから作品が作れないんだよ。不幸にならないとダメだよ。バイトの給料なんか、一回落とせばいんだよ。」ここまでくると無茶苦茶であるが、一面の真理もあるとは思える。
 満ち足りた人間はなにも作品を作る必要もなく、何か欠けた所のある人間が、そこを埋める為に作品制作をする、というのは、自分にも思い当たる節がある。
 (ちなみに、当時の学生さんは相原さんの事を「アイちゃん」、講師の山元るりこさんの事を「ルリルリ」と読んでいた。今回のタイトルの「怒りのアイちゃん」はここからいただいている。)

 最後に、相原さんが怒っていた記憶があるのは、KAVCでの上映会の時だったかと思う。いつものように前で挨拶してトークを始めた相原さんは、「若い連中は17-8ではじめて、23-4になるとみんなやめちゃうんだ」と言っていた。この発言に関しては、別の方も言及されていたので、間違いの無い事だと思う。

 ただ、才能があるかどうか、という事については、本当に「やってみないと判らない」それも、適当にやるのではなく、ぎりぎりまでやってみて初めて判る事だとおもう。普通、何年かやってみれば、自分に才能があるかないかは判る。無いとわかったら、そこでやめてしまうのは、かならずしも不自然な事ではないと思う。

 この、「作らない事、作らない奴に怒る」という事は、最後に助手をされていた方が、「最後は、どうも「自分の方がおかしい」という事に気づいておられたようです」と言っておられたので、晩年はあまり怒っておられなかったのかも知れない。

 今回の写真は、90年10月頃、飲み会の写真。いただき物の写真です。
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相原信洋さんの思い出 その3 最後の夏 そして

相原1987

 1978年のアニメ塾より、あっという間に30年が過ぎた。その間に数知れぬ上映会があり、飲み会があった。途中から相原さんは東京と京都を往復する生活をされていて、さらに函館にも住まいを借りて、ワークショップをされ、函館山で上映イベントをされていた。これが、「アニメーション・ファクトリー」の始まりらしい。

 この函館山での上映イベントに拙作「アニメのアニメ」(2005)を貸して欲しい、という話を相原さんからいただき、「おおっ」と思って、はいはいはい、のはいはい、とお貸しした。

 函館の皆さんに「面白い〜っ」て受けていた、という話を後で聞かせていただき、相原さんは「ピンポーン」とポーズを取ってみせてくれた。

 この作品は、人形アニメーションを作っている男が、製作に乗ってくる度に、ドアの「ピンポーン」に呼び出されて再々邪魔をされ、最後に怒り狂って相手を撃ち殺す、という話である。

 そういえば、京都に来られた頃、「京都はいいよ、小谷君」と言われて、「東京だと、すぐに飲みにいきましょう、というような誘いが来て、ゆっくりアニメも作れないんだけど、京都だと誰も誘いに来ないから、いくらでもいつまでも描いていられるんだ」とおっしゃられていた。

 もっとも、京都でも時間が経つと「飲みにいきましょう」という方が増えるのは自然の摂理で、函館に家を借りられたのは、これを回避して作品制作に専念する時間を増やすためだったのではないか、と、後日思うようになった。

 この「乗ってきた時に邪魔が入るとめっちゃ腹が立つ」という経験はある方もない方もあるだろうが、邪魔をした側からすると、「何をそんなに怒っているのか」と思われるかもしれないが、とにかく「乗っている時には邪魔をされたくない!」という思いを持たれる方は多少は判っていただけるだろう。

 さて。

 時は更に過ぎて、2008年11月、神戸映画資料館で、相原さんのほぼ全作品上映と、ライブペインティングがある、という事で、「おおっ」と出かけていった。昔はしょっちゅう相原さんの16mm上映会があったような気がするが、何年か無かったような気がする。また、「カルマ」が観れる。

 昔、「カルマ」出来上がった頃、上映会で相原さんは「もう少し作品が貯まったら、全国をフィルムを担いで上映会をして回る生活をしたい。「観たい」という人がいるんだもん。」と言っていたが、結局その思いは叶わなかった。というのは、「観たい」という人がいなかった訳ではなく、「作品を観せて回りたい」というよりも「作品をもっと作り続けたい」という欲求の方が強くて、作品作りの手を止めて上映会に専念する、という事が出来なかったんだと思う。

 相原さんの京都での助手をされていた方に聞いた話だが、昔は「なんで皆は作らないんだ」と怒っていた相原さんですが、「最後は「自分の方がおかしい」という事に気づいていたようです。」との事だった。

 この上映会、昔「「カルマ」をフルカラーで今度作るんだ」と言っておられた意欲作「水輪」のフィルムが「行方不明!!」(ああ、このアバウトさが相原さんだな)とか、「発見されて無事上映」とかあったが、「カルマ」は何事も無く無事上映されて、「ああ、もう一度フィルムで観れてよかった」と思った。

 が、イベントの合間に相原さんと「ごぶさたしております」とか少し喋っていると、後から知り合いから「小谷さん、相原さんと「普通に」しゃべってはりますねぇ」と言われてしまった。

 それは、相原さんは広島フェスの選考委員で大学の学部主任で世界的映像作家で、こっちはただのサラリーマンのアマチュアの作家ではありますが。

 そして、2010年。偶数年は、広島フェスの年。相原さんは、昔「広島でなんかやるらしいねぇ」と言ってたのもつかのま、「フレーム・イン」の主になっていた。

 この「フレーム・イン」というのは、フェス参加者が自由に自分の作品を持ち込んで上映するスペースで、入場無料だったので、昔は大いに賑わって、上映枠の取り合いになる位だったが、最近は本プログラムが過剰に充実して、朝から晩まで観ても全部見切れない位になってしまったので、参加者もそこまで手が回らず、やや閑散となっていた場所である。

 ここには「20円」のセルフサービスのコーヒーコーナーがあって、アニメ鑑賞に疲れた私はしばしば「20円」のコーヒーを飲みながら、アマチュア作品に心の癒しを求めていた。

 相原さんは相原さんで、「閑散」となっていたのを幸いか、コンペ入選の作家の方を呼んでは、普通の上映とは別に「Q&A」コーナーを作って、会場を盛り上げておられた様だ。

 そして。

 2010年、大ホールで、相原さんは南米から来られた若いアニメ作家の方を連れて会場を歩いておられた。ばったり出会った私は、カタコトの英語で、南米の作家の方に挨拶をして、「これ、私の作品です」と、自分の作品集のDVDをその若い南米の作家の方に渡した。(広島には、作品集のDVDを持参して、何かの度に贈呈する事にしています。原価40円位だし。)
 すると、相原さんが、
「小谷君、僕にも下さい。僕も、僕のを上げますから。」
 と言われたのである。はいはいはい、のはいと差し上げた。「僕の」は、後で、田名網さんと共作のDVDをちゃんといただいた。

 「おい、自慢かよ」と言われると、今回は純粋に自慢である。大阪府立労働センターでぼろかすに言われてから32年、コツコツと作りつづけけたのだから、ちょっとは自慢させてほしい。

 翌2011年、3月、京都シネマで、京都造形芸術大学の通信教育のアニメーションの卒展があった。京都シネマに行くと、相原さんがおられた。

「ああ、小谷君」と言われて、二言三言お話したが、あまりお元気のない様子で、「体調が良くないのかな」と思った事は覚えている。

 別に、ちょっと前に若い作家志望のの方から、「あの、おじいちゃん」と言われて、若い方からは相原さんもそう見えるのかな、と思った事もある。

 これが、最後にお会いした相原さんとは、まさか思いもしなかった。

 5月1日、日本アニメーション協会の小出会長より、メールが来ていた。「相原信洋氏逝去について」というタイトル。

 「えっ、はあっ、何っ!」とあちこちからメールのやりとり、「相原さんと親しかった方と聞いていますが」という方とのやりとりも含めてばたばたしつつ、「自主制作アニメーションの半分が無くなった」という実感がじわじわとしみてきた。

 その後の、京都造形芸術大学でのお別れの集いやら、「U-ストリーム」での追悼番組などを観ていると、「そんなんが好きやったら、言ってくれたらなんぼでも裏ビデオあったのに」と言ってしまう自分もある。(それが判らなかったのが「ダメ」と言うことか!)

 と、言いつつ、本日も動画をちょろちょろと描いています。この病気は治らない。

 写真は1987年頃の上映会の飲み会の相原さんです。


 




 


 

相原信洋さんの思い出 その2 アニメ塾'78

アニメ塾78

 さて、今でもそうだが、上映会場や、映画館の入り口近辺には、上映会の案内チラシなどがずらりと置いてある。インターネットの無い時代には誠に貴重な情報源で、「プガジャ」などの情報誌には、上映会タイトル、日時、料金、会場、料金、連絡先の電話番号位しか書いていないので、上映作品の簡単なスチルや解説のついているチラシは誠に貴重なものだった。当時のチラシは、ちゃんとしたスポンサーのついたカラーオフセット印刷から、ガリ版、コピー、はてはジアゾの青焼きまであった。

 その中に、上記のハガキのようなチラシ(もっと大きなオフセット刷のパンフレットのチラシもあった。)が良く見かけられるようになった。「相原信洋 実践アニメ塾 78夏」6月24日説明会。

 その頃、私は大学二年生で、8mmフィルムによる自主制作アニメーションは中学生の頃から作っていたので、最低6年間くらいの制作経験はあったことになる。だから、こういう「初心者の為の講座」をわざわざ受講する必要があるのか、という疑問もあったが、説明会は無料という事もあって、当日会場に足を運んだ。

 会場は、自主上映会場としておなじみ梅田・北市民教養ルーム。現在はエストの横にあるが、当時は閉校になった小学校の建物をそのまま流用したものだった。

 会場に入ると、なぜか高校の同級生がいて、「ありゃ、武藤君ではないですか?」と声をかけると「小谷君ですね」と言われた。この武藤君とは、その後、アニメ塾活動を通じて長い付き合いとなった。アニメ塾を企画・主催された今泉さんとのつながりで、お手伝いをしていたとの事だった。

 さて、説明会が始まって、日程の説明やら内容の説明やら、相原さんの作品上映もあったように思う。いろいろな話の内容は詳しくは覚えていないが、相原さんの「皆さんは、私のライバルでもある訳で・・」という言葉は鮮烈に覚えている。なぜなら、その一言で舞い上がってしまい、速攻で受講を決めてしまったからだ。

 その日、説明会に来ていた方々全員が「この一言」で、舞い上がった訳ではないと思う。単純にアニメーションの技術を学びに来られた方もいた。しかし、あの頃、相原さんが各地で開かれていた上映会を観に来られた方々の多くが全国のあちこちで「舞い上がって」いた事は容易に想像できる。この頃、あちこちで「舞い上がった」方々は、現在作家として活動されていたり、大学で教鞭をふるわれている方の中に多くいるはずだ。

 さて、8月20日に講座は始まる。受講生は総勢31名。学生ばかりではなく、社会人の方もかなりいた。私は、手製のトレス台を、標準の動画用紙が使えるサイズに改造して参加したが、多くの方は「三起社」製のトレス台を主催の方の手配で購入されていた。この「標準」の動画用紙、というもの、今まで「B5」の紙にパンチで穴をあけ、手製の2穴タップで作業をしていた私にとっては、「大きいな」という印象だった。この時初めて使った三穴タップは、「これは使いやすい」と思った。2穴タップは、穴に力がかかるとすぐに紙が破れたり、抜き差しを繰り返すと穴がふにゃふにゃになったりしたが、3穴タップはそういう事が起こりにくい。

 講座は、自主作品の制作と、相原さんによる基礎動画技術の講習、という二本だてのものだった。動画技術に関しては、「線の引き方」から、ものの動かし方のパターンなど。自主制作、は、セルにトレスしてのセルアニメはとても間に合わないので、動画用紙に全部書き込む「ペーパーアニメ」で制作してください、というものだった。

 主催の今泉さんは、仕事が終わると、会場に駆けつけてこられていた。相原さんは講師だから、毎日来ておられた。当時、相原さんはOH!プロダクション所属のプロのアニメーターだった。アニメプロというのは今でも昔でも毎日長時間労働の修羅場で、「締め切りに間に合わない!」「もう死にそう」などと悲鳴が飛び交う場所である。相原さんがこちらに来られる時、進行の方が「相原さん、後どのくらい行けますか!」と言われて、相原さんは「ああ、ぼく明日から大阪なので」と応え、進行の方がひっくり返ったそうだ。「あれ、どうなったんでしょうねぇ」と言っておられたが・・・

 「ちょっと、行ってきますので、後はよろしく」は、ここから始まったのかもしれない。

 さて、講座期間は、8月20日から27日までの8日間。期間は、運転免許の合宿講習のようなものだが、会場は昼から取ってあるが、社会人の方は夜からの参加だから、到底作品作りは間に合わず、結局、期間が終わってから、完成した動画を今泉さんに送って撮影してもらう、という事になった。私は学生でちょうど夏休みだったので、アルバイトを休んで毎日昼間から参加していた。動画は経験があったので、とっとと描いていると、相原さんが見て「速いね。」と言われて、私はさらに舞い上がった。

 この時の、動画基礎技術の講習内容については、現在京都造形芸術大学で講師をしている山元さん(当時)が、きちんとしたノートを残しておられて、後日の自主講座時には大変参考になった。自主制作をしながら、作画がしやすいように工夫した方法が「タップ割り」として、プロの方も使っている方法だ、と知った時はこの時だ。

 会場は、北市民教養ルームの他、中之島の中央公会堂の会議室も使ったと思う。

 さて、講座が終わってしばらくして皆の作品も大体出来上がったので、完成試写会が開かれた。確か一般の方にもオープンな上映会であったかと思う。この上映会後、みんなで集まって「やろうぜ」という事になった。主催の今泉さんも、皆にやってもらいたかったようである。京産大アニメ研から受講に来ていた三吉さんを代表にして、「アニメ塾」が、グループとしてスタートした。異様な熱気で、ほぼ受講生全員が参加したと思う。相原さんも、「この連中がばんばん作品を作ってくれる。」と期待していたようだ。

 ところが。

 アニメ塾第一回の集まりが、大阪府立労働センターの視聴覚室(リアプロジェクションの映写設備付きで、結構高かった)で開かれた時、参加人数は半分くらい、作品もあまり出来ていなかった。私は中学生の頃から作りためた作品を持っていったが、東京から来てくれていた相原さんに「こんなのダメだよ」とケチョンケチョンに言われた。

 「こんな頭がくるくるなったキャラクターのおんなじアニメばかり作っていても駄目だ。(頭のくるくるなったキャラクター、というのは、このブログの自画像みたいなキャラ。当時、「かいぶつ宝島」という作品に出していた。)何十年も同じ作品作ってる8mmアニメの人と同じだ」(この、8mmアニメ、というのは、当時の雑誌「小型映画」に載っているようなアニメ、という意味。)今泉さんにも「小谷さん、相原さんの言う通りですよ。」と言われた。

 そもそも「作品があまり出来ていない」という事に相原さんだいぶ怒っていたらしく、アニメ塾に東京から受講にきていた政木さんという方が、「東京に帰ってから怒ってましたよ」と後で教えてくれた。今から思えば、ぼろかすに言われたのもそのせいもあるかも知れない。(そんな事はないか)

 この「頭がくるくるなったキャラ」は、その後しばらくして私の作品から姿を消し、「触感シリーズ」5作品を経て、1999年に、事実上現在までの私の最高傑作「面喰い」の主人公として復活する。(この、「面喰い」という作品、大変良く出来ているのだが、ご覧になられた方はご存知と思うが、同時に大変「困った」作品である。最高傑作が「困った」作品、というのは、まことに困った事だ。(作者が「困った奴」と言う事か)) 
 ほら、「頭のくるくるなったキャラでも、ちゃんと作品は出来たではないか」と言っても、相原さんは覚えておられなかっただろうな。当時、そんな怖い事は言えなかったが。

 「作品を作ってない」という事に関しては、講座が8月に終わってからまだ三ヶ月くらいで、メンバーの久しぶりの顔合わせ、という意味のあっての集まりだったから、出来てなくても普通だとは思うのだが・・・

 翌年、第一回の「アニメ塾」上映会の時には、残ったメンバーがそれなりの作品を作って出品したので、これも政木さんの情報だったたと思うのだが、相原さんは「やっぱり、作っていたんですねぇ」とご機嫌を直されていたそうだ。

 この「アニメ塾」、1985年頃に活動を停止するまで、数年感、関西地区で活発に作品制作・上映活動を続ける事になる。その後については、また後日。
 

相原信洋さんの思い出 その1

相原さん1983年

 時に、1978年。まだ、アニメーションというものを鑑賞するのに、テレビで観るか、劇場に行くか、「上映会」に行くしかなかったころ。

 その頃の私は、その何年か前から「アニメーションを観る」という事に、「飢えて」いた。

 劇場用長編作品は東映動画の黄金時代が去って久しく、テレビアニメの表現は欲求を満たすに足らず、録画も出来ず(「TV画面」を8mmフィルムで「撮影」するという事は一回やりましたが)、毎月一回発行される「プガジャ」の上映欄を頼りに、「アニメーション上映会」なら、なんでも探し求めては通っていた。

 どのくらい見境無く何でも観たか、というのを挙げていくと、門真市の青年会議所主催の無料上映会で、「タイガーマスク・劇場版」(「寅さん」と併映。この寅さん、中々面白かった。)、箕面スパーガーデンの大広間の無料上映で、東映長編「パンダの大冒険」、阪神パークの無料映画館(今はなき「阪神パーク」の中にあり、ディズニーのアニメ・実写の長編などをかけていた。)で、「バンビ」、近所の今はなき「庄内東映」の「まんがまつり」で、「長靴三銃士」(これに出てくる「アニー」という女の子が可愛くて夢中になった。)など、とにかくアニメーションと名のつくものは全部観ていた。当然、その頃、北市民教養ルームや六甲あたりで開催されていた、大使館フィルムなどの自主上映などにも全部顔を出していた。

 さて、そういう中で、京都の西部講堂(今でも、変わらぬ姿であるようだ)でのアニメーション上映会に出かけていった。寒い季節だったと思う。バイクで西部講堂前の駐車場に入っていき、バイクを止めて会場に歩いていくと、会場の前にちょっと変わった「青年」が立っていた。その「青年」に、ちょっと高いかすれた声で、「映画を観に来られたんですか」と声をかけられた。その「青年」が相原さんだった。

 この頃の相原さんは、ちょうど「カルマ」を完成されたあたりだった。でっかい16mmのリールを何本か持って映写機の横に立ち、自分で映写機を回されていたと思う。上映の前後にはちょっとしたトークがあった。「STONE」や「やまかがし」などの作品は、当然の事ながらさっぱり当時の自分には理解できず、呆然としながら観ていたのを覚えている。この「カルマ」は、その後も上映会の度に観る機会があり、何回か目に「わかった!」と思った時は欣喜雀躍したのも覚えている。こういう、実験的な映像というものは、若い頭の柔らかいうちに無理矢理でも何回か観ていくと、そのうち判るようになるものだと思う。(この「判る」というのは、観て面白いと感じる、感動する、という意味です。)

 この時は、作品はさっぱり判らなかったが、とにかく「プロのアニメーター」の方を観るのは初めてだったので、「おお、これがプロのアニメーターの人か」と思って観ていた。(当時、相原さんはOH!プロで、テレビアニメの動画を描いていた。「元祖天才パカボン」のタイトルでよくお名前を拝見していた。)

 これが相原さんとの出会いの思い出である。写真は、数年後、京都の拾得での上映会時のもの。右から、相原さん、私、アニメ塾の山元さんと梶山さん。相原さん、若い!

70年代のアニメーション自主上映

鉄扇公主上映会チラシ

 この度、日本アニメーション学会の西日本支部というものが出来る事になり、準備会2回と第一回の研究会に参加した。

 第一回の準備会のおり、「なにかの参考に」と思い、70年頃の新聞記事・チラシなどをスクラップしたものを一冊持参し、会議後の懇親会で披露したところ、「おっ」「何だこれは!」という声が上がった。

 この日本アニメーション学会というものは、主に大学等でアニメーションの教育・研究に携わっている人で構成されており、今年で創立15年になる。(ちゃんと日本学術会議に登録された団体で、ナントカ学会の類いではありません。)

そのメンバーも若い方もいれば、50代以上の方も結構いるわけだが、現在大学等で教育に携わっている50代の方の多くが、あの頃の「アニメーション自主上映」に参加していた事が判明したのである。

 この「アニメーション自主上映」というものは、劇場でかからないアニメーション映画を、有志・サークルで借り出して、市民会館の会議室などにフィルムと映写機を担ぎこんで行うものだった。当時のアニメーションファンは、テレビでテレビアニメを観る他は、劇場で「東映まんがまつり」等を観に行くしかアニメーションを鑑賞する方法が無く、この「アニメーション自主上映」は、普段観れないアニメーションを観る唯一の機会だった。

 この頃は丁度劇場用長編アニメーションの公開が非常に少なくなっていた事も有り、「飢餓感」をもったアニメファンは、月に数回の上映会に「殺到」した。上映のラインナップとしては、各国の大使館フィルム(各国の大使館が、自国の文化PRのためにほぼ無償で貸し出してくれるフィルム)、PR用映画(企業や財団法人、官庁などが活動広報の為に制作した映画。人形アニメなどの秀作が多い。)、フィルムレンタル業者(上映会用に、劇場用の長編アニメやTVアニメを貸し出す業者)のフィルム、個人コレクション(映画図書館プラネットなど)のフィルムなどだった。

 この「殺到」の度合いだが、定員36人の会議室に100人以上が押し掛け(消防法違反もすでに時効と思う)、映写機の台の下にもぐりこんだり、壁際にクモ男のように張り付いたりして無理矢理みたものの、会場内酸素不足で全員の頭がおかしくなり、ギャグでもなんでもないシーンで全員が爆笑をつづけたり、某実験系アニメーション作家の上映会にアニメファンの中学生の女の子が来て鑑賞後呆然として、「ヤマトみたいなアニメじゃなかったんだ」と言って帰ったとか、エピソードに事欠かない状態だった。(写真は、神戸で行われた「鉄扇公主」のチラシ。この上映会には、筒井康隆が観客として来場していたそうだ。)

 もっとも、この「アニメなら何でも観る」という姿勢が、海外のセルベやグリモーなどの秀作に出会うきっかけとなり、多くの当時のアニメファンが、商業用アニメと違う世界に眼を開くきっかけとなったと言える。

 現在では、DVDでアニメーションがいくらでも個人所有できるようになり、ちょっと英語ができれば海外から個人輸入で海外作品の原盤を直接入手することも難しくない。その上、年間に公開される長編新作劇場用アニメーション、毎週放送されるTVアニメの新作など、「全部消化するだけで大変」な状況になっている。この状態で、わさわざ、自分の好みでないアニメーションを探して、上映会に、鑑賞しに行くなどという事は考えづらい。

 その頃の、「とにかくアニメーションが観たいが、観る機会が非常に少ない」という環境は、かえって、現在のアニメーション研究の盛り上がりに、大きく貢献しているような気がする。
プロフィール

かにの社長

Author:かにの社長
1974年頃より自主制作アニメーションを作り続けています。自称「自主アニメの岩田鉄五郎」、最長不倒記録を更新中。

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