I'm Gonna Knock On Your Door

1979年6月15日、PAF5大阪会場の一部は、アニメマニアたちの異常な熱気でつつまれていた。
彼らが待ち受けていたのは、わずか上映時間1分ほどの自主制作アニメーション、「I'm Gonna Knock On Your Door」。あまり動かない当時の自主アニメの中にあって、BGMにぴったり合った軽快な動きと可愛いキャラクターで、この年の他会場でバカ受けしていた。(頭の絵は記憶を元に描いたもので、本物はもっと達者な絵でもっと可愛いです)
この当時の自主アニメの音付けというと、カセットテープかレコードプレーヤーで音楽を再生しながら、映写機で映写しながら録音する、というスタイルが一般的だった。この録音というもの、映写機を途中で止めて、再スタートする度に、「ブツッ」という音は録音されるわ、映写機もプレーヤーもアナログ用の家庭用機器なので、再生・録音する度に微妙に時間が違い、頭を合わせると最後が合わない、最後で合わせると頭が合わない、たまりかねて映像の長さを調節するとあらぬ方向(前後)にずれる、というものだった。たまりかねて「大体」で妥協したり、映写しながらリアルタイムで音を作ってアフレコしたり、という惨憺たる状況で、今日のデジタル編集に親しんでいる皆様には想像もつかないだろう。
そういう中に、この作品が登場したのである。軽快なアメリカンPOPのBGMで、かなり有名な曲なのでご存知の方も多いと思うが、「カンカンカンカン」とか、「ダダダダ」という部分がかなり多い。その「カン」ひとつひとつに動きが合っていて、最後までずれずにきちんと終わるのである。
この作品を受け付けた関係者の当時の証言によると、「一旦出品してきてから、「どうも絵と音のタイミングが納得できない」と作品を持ち帰り、再度持って来た。最初のバージョンでも十分音は合っていたのだが」という事だった。
この作者(重田誠・武内理能)の執念がアニメマニア達の心を打ったのか、上映終了と同時に割れるような拍手が会場から上がった。
さて、この作品の作者、あまりに達者な絵と動きだったため、当時、「ブロの仕事ではないか」という噂もあった位であるが、その後はアニメ作品は発表していない。しかし「武内理能」で検索すると、「落葉伽藍 武内理能作品集」「草瞑花想」という2冊の写真集と画集がヒットする。あまりある名前ではないと思うので、その後はこちらの分野で活躍されているのかも知れない。
ところで、ビデオのない当時、「この作品」が上映される事を、アニメマニア達はどうして知っていたのだろうか。
実は、当時のPAFは、東京・静岡・名古屋・京都・大阪・神戸を巡回上映していて、6月にはすでに京都・神戸での上映がすんでおり、京都・神戸で見たマニアたちが、「もう一回見たい!」という事で大阪に登場したわけである。
8mmフィルムというのは基本的にオリジナル一本しかなく、上映を重ねて映写機を通す度に消耗していく。なので、「すぐ近所で3回も上映するのなら、大きな会場で1回上映して、北海道とか九州とかでの上映を増やせばよいのではないか」という発想が出て来ても不思議ではない。結局、PAF終了間際になって、関西のPAF上映は神戸一カ所となり、九州・北海道での上映も実現したのだが。
地球クラブの大川くん

地球クラブというのは、今年(2011年)4月に亡くなられたアニメーション作家、相原信洋さんが80年に東京で立ち上げた自主アニメ団体である。青山のマンションの一室を借り、毎週一回全員で集まってそれぞれの制作を行い、また各地で上映活動を展開していた。ここのOBとしては現在も活躍中の関口和博さん、横須賀令子さんがいる。
当時相原さんは、「ばんばん作らなきゃだめだよ」と言いながら盛んに若い連中をかき集めていた。当時の大阪のアニメ塾、東京のアニメーション80も相原さんがきっかけになって出来た団体である。(最近、相原さんの周辺にいた若い方によると、今でも「ばんばん作らなきゃだめだよ」と言っていたそうだ)
で、相原さんなり、団体の上映会が終わると、みんなで夜遅ーくまで話し込む、というのがその頃のパターンで、(話し込む、と、言うより、ほとんど相原さんが熱く語るのをみんな聞いている、という方が正しい)喫茶店でしゃべっている内に電車が無くなって全員始発まで徹夜したり、ビジネスホテルでしゃべっていて、「他の部屋の方が眠れないのでもうやめて下さい」とホテルの人に怒られたりしていたのである。
そういう話し込みの一つで、当時のアニメ塾の代表の三吉さんとかと話を聞いていると、相原さんが、「最近、大川くんというのが地球クラブに入って来て、すごいんだよ。セルを置き換えるんじゃなくて、どんどん積み重ねていくんだよ。」という話をしたのである。相原さんがすごいというんだからすごいんだろう。
いざ実際の作品を観てみると、セルにペイントマーカーで描いた絵がどんどん積み重なって行く。パソコンのレイヤーとは違い、実物のセルは透明とはいえ厚みがあるから、積み重ねれば積み重ねるほど下のセルはだんだん暗くなって沈みこんでいく、という効果になる。「なるほど、この手があったか」という手法だった。
それとは別に描きアニメもあり、画面一杯にかきなぐったような絵が、画面一杯にぐちゃぐちゃに動き続ける、という凄まじい作品で、今ならそう珍しくはないが、当時は非常に斬新な感銘を受けた。
以下に資料から、大川くん(フルネームは大川比呂之さん)の作品タイトルを紹介する。(年数は
制作年ではなく、上映された年)
MIED YOUR EYE(82年 神戸の地球クラブ アニメランドで上映)
トラウマ(82年 神戸の地球クラブ アニメランドで上映)
イダム(83年 京都の地球クラブ アニメランドで上映)
イダム2(83年 大阪の地球塾 アニメワールドで上映)
U-DON(84年 神戸のアニメーション80上映会で上映)
イダム3(84年 ユーロスペースのアニメーション80上映会で上映)
デージ(85年 アニメーション80上映会で上映)
Back Drop(86年 ピアアニメサマーフェスで上映)
イダム4(88年 アニメーション80フィルムショーで上映)
とにかく、ぐっちゃぐちゃの絵が画面せましと動き回るエネルギッシュな作品群である。
この「大川くん」に初めて会った時の印象は、「あっ、Dr.マシリトだ」である。(「Dr. マシリト」というのは、当時非常に人気のあったマンガ、「Dr.スランプ」の敵役の科学者で、少年ジャンプの担当編集の鳥島さんという方の似顔絵がそのままキャラになっていたのである。)作風はぐしゃぐしゃだが、本人は温厚な好青年、という感じだった。当時「大川くん」は地球クラブの上映会の世話役のような事をしていて、私の所属していたアニメ塾との合同上映会などの件でしばしば電話でやりとりをしていた。
で、ある日「大川くん」から電話がかかってきた。「今、イベントのバイトで来ているんで、来ませんか」「あー、はい、どのへんですか」「名古屋の駅前です」
おっと、こっちは大阪なんですけど。東京の人から見ると、名古屋も京都も大阪もすぐ近くに見えるんだろうか。とはいえ、ほいほいと、高速バスで出かけて行ったこっちもこっちだが。
そのイベントは、中島興さんがからんでいた現代アートのイベントだったように思う。「大川くん」は、「知ってる人が誰もいないんです。」との事だった。めしを一緒に食べて、バスで帰りました。
その後、「大川くん」は地球クラブからアニメーション80に移籍して、90年頃まで活動していた。現在は自主制作は作っていないようだが、才能のある方だったので、どこかのプロの現場で活躍されているのではないかと思う。
さて。話は、80年代初めに戻る。最初に「大川くん」の作品を観てから、しばらくして、相原さんの上映会があり、アニメ塾の三吉さん他と観に行った。
相原さんの新作が「ぐっしゃぐしゃ」になっていた。
「これ、大川くんの影響かなあ」と、三吉さんと顔を見合わせて話したものだ。
ここ10年位に相原さんの作品を観だした人には分かりにくいかもしれないが、初期の具象的な切り紙アニメから、70年代後半の「妄動」あたりより、相原さんの作風は、端正な鉛筆画のなめらかな抽象アニメに向かった。(別に実験映画の系列もあるけれど)「カルマ」あたりでは作風が確立された感があり、フルカラーの「水輪」などを観ていると、「相原さんの作風はこうなんだ」と思わせるものがあった。
それがいきなり「ぐっしゃぐしゃ」になったのである。その後も、「Wind」のような端正な抽象作品も発表されていたが、この「ぐっしゃぐしゃ」の系統の作品の方が量的には多かったように思う。
この「ぐっしゃぐしゃ」原因がほんとに「大川くん」の作品にあるのかどうかは、当時、相原さん本人に、「これ、大川くんの影響ですか」と聞く訳にもいかなかったので、ほんとの事は分からないのだが。
90年頃より「大川くん」の自主作品の発表はなくなったが、相原さんはその後も「バンバン作んなきゃだめだよ」と言い続け、また、ご存知の通り精力的に制作活動を続けた。そして、相原さんの作品に魅かれてアニメーションの門をくぐった人はいっぱいいる。
と言う事は、この「大川くん」は本人も知らない内に、日本の自主制作アニメーションに大きな影響を与えていた事になるのかも知れないのである。
失われた世界

こんな感じの画面でした
1970年、村上修平作品、17分37秒。1980年、PAF6にて上映。PAF上映に際し、若干の撮り足しをした、との事。
アーサー・コナン・ドイルの「ロスト・ワールド」の自主アニメ化。制作年月日と作風からすると、70年代後半の自主アニメ世代ではなく、小型映画の系統の方らしい。
切り紙アニメで、明快な話である。特に恐竜の動きに質感があるとか、カット割りが大胆という事も無く、普通に話は進んでいく。絵柄は、劇画風でなくマンガチックで、今で言うとしりあがり寿風だが、ヘタウマではなく、リアルに一生懸命描いて結果としてそうなっている、という絵だった。
のだが、上の絵にある、「登場人物が手前を指差す所を極端な遠近感で描く」カットがやたらと印象的だった。
会場に来られていた今泉晶彬さん(当時は幻覚工房の今泉了輔さんだった)は、映像の事に関してはとてもきびしい方だったが、上映後、この「指差し」の物まねをしながら、「これ、これやからね」と大笑いしていた。(後で「作品としては失敗作やね」と付け足されていましたが)
70年当時は恐竜映画(怪獣映画ではない)がほとんどなく、欲求不満から自分で作ったという コメントだったが、なるほど恐竜大好き、という事はよくわかる映画だった。作者の方、ジェラシック・パークが公開された時は、恐竜初登場の場面で、映画に出てくる恐竜博士と同じ顔になったのではないでしょうか。
パララックスとの戦い
作品のタイトル、ではない。
その頃の自主制作アニメーションに用いられた8mmカメラはたいていは一眼レフ形式となっており、撮影用のレンズを通って来た光の一部をハーフプリズムでファインダーに導くようになっていた。ズームレンズを操作すると、ファインダーの中の画面も望遠になったり、ワイドになったりした。「ファインダーで見たままがそのまま写る」というのが売りだった。
実写ならば、ほぼそれで間違いはなかった。
8mm映画のフィルムは8mm幅、一コマの画面は約幅6mm高さ4mmである。ここに写り込む映像は、実は、ファインダーで見るより、広く写っている。ファインダーで見ているのは、実際に撮影される画面の一部分なのである。しかも、どのくらい広く写るかは機種によって微妙に違い、同じ機種でも、機械によって微妙に異なっていた。また、上下左右にも微妙なずれがあるのである。
という事は、ファインダーをのぞいて画面の位置を決め、撮影しても、現像が上がってくると、撮影しようとしていた画面と若干ずれたものが写っている、という事になる。
実写ならば、ファインダーでのぞいた画面の外側にも被写体はあるから、若干ずれて広く写っても、ほぼ見た通りのものが写ってくれている。
しかも、8mmフィルムを映写機にかけて上映するときには、マスクがかけられて、フィルムに写っている画面よりも若干小さく切り取られて上映されるので、(このマスクの位置は上下に調整できるが、左右方向は固定である。)ほぼ見た通りが上映されると思っていい。
ところが、アニメーションの場合は、特に平面の描きアニメの場合は、被写体の絵は、撮影画面ぎりぎりしか作っていない。幅20センチの絵の場合、上下左右の余裕は1センチくらいしか無いのが普通だ。そして、画面の上のすぐ外には、タッブの穴が空いているのである。
当時の自主制作の作家は、たいてい、「アニメを作るぞ」というので8mmカメラを買い込み、取り扱い説明書やアニメ入門書を読みながらカメラをセッティングし、素材を置き換えてコマ撮りし、現像が上がって愕然とした、という体験を持っている。
8mmフィルムの現像は一週間くらいかかった。最も早かった時期で2-3日だったと思う。カメラ屋にフィルムを持ち込み、一週間わくわくして待ち、出来上がるが早いかカメラ店に駆け込んで現像の上がったフィルムをもらい、家に帰って袋を開けて箱を開け、映写機にフィルムをかけて回してみると・・・なんと、画面がずれてタップが写っているではないか!
ここで、作家は決断をせねばならない。これではダメだ、撮り直しをしないといけない。おっとフィルムを買う金がない、現像料もない。作った時にきちんと並べてあった素材は撮影の時にぐちゃぐちゃになって積み上げたままだ。大体、今から撮り直して現像に出しても、上映会に間に合わない・・・間に合わない?!!
ええい、このまま出しちゃえ。
と、言う訳で、初期の8mmの自主アニメ上映会には、絵の端っこが写ったのやら、タップが写ったのやら、画面全体が暗い(露出不足)、全体が明る過ぎて白く飛んでいる(露出過多)、なぜか「手」が写っている(失敗)という作品が続出し、観客も自主アニメを作った事のある「優しい人」が大変多かったので、「ああ、これは撮影が大変だったのだな、本当はこういう画面が作りたかったのだな」と、想像力で画面の足りない部分を補いつつ鑑賞する、というのが普通のパターンだった。
この、画面のずれ(これがパララックスだ)、露出の過不足、撮影の諸失敗との戦いに勝利する為には、カメラを買った際に、フィルム一本使って、画面のずれがどのくらい出るか(目盛り付きのテストチャートを作る)、各露出段階の写り具合(半絞りずつ、実際の素材で撮影する。画面に露出値と照明のメモを一緒に写し込む)を確認してデータを残しておく。
そして実際の撮影時には、画面のずれ分を見込んであらかじめその分ずらしてセッティングし(これが意外に勇気が要る)、露出は最適値に固定しておく。
その上で、撮影場所には十分な余裕をもたせて、事前に出来る関連作業は全部すませておいた上で、ゆったり撮影作業する事が必要なのだが、アニメの入門書にも、カメラの取説にも、「事前にテストしておきましょう」と書いてある位で、何をどうするかは書いていないのである。
しかも、当時の自主アニメの作家は、たいてい、「一本だけ」の人が多く、「アニメの撮影は大変だ」という思い出を残して消えて行かれる事が多かった。アニメは絵を何百枚も書くのが大変、という事もあったが、この撮影の大変さに挫折した人も多いのではないか。何しろ、8mmフィルム一本、3分20秒の撮影に、3600回シャッターを切らなければならないのだ。しかも、その間、素材の置き換えをいちいち行わなければならない。ものすごく疲れる作業であった事はまちがい無い。
現在では、「モニターで見た画面がそのまま写る」「撮影した結果がすぐ確認できる」という時代になっており、「パララックスとの戦い」は無縁のものとなった。しかし、あの当時の一発勝負の撮影の緊張感、サークルでのグループ撮影の連帯感などはフィルム撮影独特のものだった。この時代を生き残ったかっての自主作家たちの多くが教育や制作の現場で活躍しているのは、偶然ではないと思う。
その頃の自主制作アニメーションに用いられた8mmカメラはたいていは一眼レフ形式となっており、撮影用のレンズを通って来た光の一部をハーフプリズムでファインダーに導くようになっていた。ズームレンズを操作すると、ファインダーの中の画面も望遠になったり、ワイドになったりした。「ファインダーで見たままがそのまま写る」というのが売りだった。
実写ならば、ほぼそれで間違いはなかった。
8mm映画のフィルムは8mm幅、一コマの画面は約幅6mm高さ4mmである。ここに写り込む映像は、実は、ファインダーで見るより、広く写っている。ファインダーで見ているのは、実際に撮影される画面の一部分なのである。しかも、どのくらい広く写るかは機種によって微妙に違い、同じ機種でも、機械によって微妙に異なっていた。また、上下左右にも微妙なずれがあるのである。
という事は、ファインダーをのぞいて画面の位置を決め、撮影しても、現像が上がってくると、撮影しようとしていた画面と若干ずれたものが写っている、という事になる。
実写ならば、ファインダーでのぞいた画面の外側にも被写体はあるから、若干ずれて広く写っても、ほぼ見た通りのものが写ってくれている。
しかも、8mmフィルムを映写機にかけて上映するときには、マスクがかけられて、フィルムに写っている画面よりも若干小さく切り取られて上映されるので、(このマスクの位置は上下に調整できるが、左右方向は固定である。)ほぼ見た通りが上映されると思っていい。
ところが、アニメーションの場合は、特に平面の描きアニメの場合は、被写体の絵は、撮影画面ぎりぎりしか作っていない。幅20センチの絵の場合、上下左右の余裕は1センチくらいしか無いのが普通だ。そして、画面の上のすぐ外には、タッブの穴が空いているのである。
当時の自主制作の作家は、たいてい、「アニメを作るぞ」というので8mmカメラを買い込み、取り扱い説明書やアニメ入門書を読みながらカメラをセッティングし、素材を置き換えてコマ撮りし、現像が上がって愕然とした、という体験を持っている。
8mmフィルムの現像は一週間くらいかかった。最も早かった時期で2-3日だったと思う。カメラ屋にフィルムを持ち込み、一週間わくわくして待ち、出来上がるが早いかカメラ店に駆け込んで現像の上がったフィルムをもらい、家に帰って袋を開けて箱を開け、映写機にフィルムをかけて回してみると・・・なんと、画面がずれてタップが写っているではないか!
ここで、作家は決断をせねばならない。これではダメだ、撮り直しをしないといけない。おっとフィルムを買う金がない、現像料もない。作った時にきちんと並べてあった素材は撮影の時にぐちゃぐちゃになって積み上げたままだ。大体、今から撮り直して現像に出しても、上映会に間に合わない・・・間に合わない?!!
ええい、このまま出しちゃえ。
と、言う訳で、初期の8mmの自主アニメ上映会には、絵の端っこが写ったのやら、タップが写ったのやら、画面全体が暗い(露出不足)、全体が明る過ぎて白く飛んでいる(露出過多)、なぜか「手」が写っている(失敗)という作品が続出し、観客も自主アニメを作った事のある「優しい人」が大変多かったので、「ああ、これは撮影が大変だったのだな、本当はこういう画面が作りたかったのだな」と、想像力で画面の足りない部分を補いつつ鑑賞する、というのが普通のパターンだった。
この、画面のずれ(これがパララックスだ)、露出の過不足、撮影の諸失敗との戦いに勝利する為には、カメラを買った際に、フィルム一本使って、画面のずれがどのくらい出るか(目盛り付きのテストチャートを作る)、各露出段階の写り具合(半絞りずつ、実際の素材で撮影する。画面に露出値と照明のメモを一緒に写し込む)を確認してデータを残しておく。
そして実際の撮影時には、画面のずれ分を見込んであらかじめその分ずらしてセッティングし(これが意外に勇気が要る)、露出は最適値に固定しておく。
その上で、撮影場所には十分な余裕をもたせて、事前に出来る関連作業は全部すませておいた上で、ゆったり撮影作業する事が必要なのだが、アニメの入門書にも、カメラの取説にも、「事前にテストしておきましょう」と書いてある位で、何をどうするかは書いていないのである。
しかも、当時の自主アニメの作家は、たいてい、「一本だけ」の人が多く、「アニメの撮影は大変だ」という思い出を残して消えて行かれる事が多かった。アニメは絵を何百枚も書くのが大変、という事もあったが、この撮影の大変さに挫折した人も多いのではないか。何しろ、8mmフィルム一本、3分20秒の撮影に、3600回シャッターを切らなければならないのだ。しかも、その間、素材の置き換えをいちいち行わなければならない。ものすごく疲れる作業であった事はまちがい無い。
現在では、「モニターで見た画面がそのまま写る」「撮影した結果がすぐ確認できる」という時代になっており、「パララックスとの戦い」は無縁のものとなった。しかし、あの当時の一発勝負の撮影の緊張感、サークルでのグループ撮影の連帯感などはフィルム撮影独特のものだった。この時代を生き残ったかっての自主作家たちの多くが教育や制作の現場で活躍しているのは、偶然ではないと思う。
アンケート総集編
今はネット上に作品を上げて、見た人のコメントをもらい、反応を知る、という事が一般的になっているようですが、パソコンもネットもケータイもない70-80年代には、いったいどうしていたのでしょうか。
実は、「アンケート総集編」というものが存在していて、ちゃーんと観客の反応が作者に伝わる、という仕組みが作られていたのです。これは、「上映会場で、観客にアンケート用紙を配る。」「配られたアンケート用紙に、上映の合間、または上映後、観客が上映会全体、または作品毎の感想を記入する」「上映会主催者は、アンケートをまとめた小冊子を作り、作者に送る。」というものでした。定期的な機関誌を持つサークルは機関誌に掲載したりもしていました。
ほぼ上映会主催者と出品者のみに配られるものだったので、一般には知られていませんが、「これをもらう為に上映会に出品する」という、作者にとってのモチベーションの源でした。全国に散らばる作者が、すべての会場に足を運んで観客の反応を直に見る事はできませんし、また、観客席で「おーっ」という声が上がっても、細かい感想までは聞けませんので、作品の反響の記録として貴重なものでした。
自主アニメの公開上映会が始まった頃は、上映会主催者=制作者である事が多かったのですが、上映会が大規模になり、全国でリレー上映されたりするようになる頃には、上映会の主催者と、作品の出品者が別々になり、作者は作品を出品するだけ、主催者は上映するだけという状態になりかけていました。
この為、全国リレー上映会の出品者でかつ上映会主催側にいた人の発案で、「アンケート総集編」を作って作者に会場の反応を還元する、という事になり、80年代初めに始められたものです。
ただし、すべての自主アニメ上映会で作られていた訳ではなく、作者寄りの姿勢を持つ上映会に限られていたようです。しかし、これがもらえる上映会ともらえない上映会では、作者の出品の意気込みも違います。
最近では、横浜の大動画上映会と、札幌の小アニメーション大感激祭がこのアンケート総集編の出品者への配布をずっと続けていただいています。
実は、「アンケート総集編」というものが存在していて、ちゃーんと観客の反応が作者に伝わる、という仕組みが作られていたのです。これは、「上映会場で、観客にアンケート用紙を配る。」「配られたアンケート用紙に、上映の合間、または上映後、観客が上映会全体、または作品毎の感想を記入する」「上映会主催者は、アンケートをまとめた小冊子を作り、作者に送る。」というものでした。定期的な機関誌を持つサークルは機関誌に掲載したりもしていました。
ほぼ上映会主催者と出品者のみに配られるものだったので、一般には知られていませんが、「これをもらう為に上映会に出品する」という、作者にとってのモチベーションの源でした。全国に散らばる作者が、すべての会場に足を運んで観客の反応を直に見る事はできませんし、また、観客席で「おーっ」という声が上がっても、細かい感想までは聞けませんので、作品の反響の記録として貴重なものでした。
自主アニメの公開上映会が始まった頃は、上映会主催者=制作者である事が多かったのですが、上映会が大規模になり、全国でリレー上映されたりするようになる頃には、上映会の主催者と、作品の出品者が別々になり、作者は作品を出品するだけ、主催者は上映するだけという状態になりかけていました。
この為、全国リレー上映会の出品者でかつ上映会主催側にいた人の発案で、「アンケート総集編」を作って作者に会場の反応を還元する、という事になり、80年代初めに始められたものです。
ただし、すべての自主アニメ上映会で作られていた訳ではなく、作者寄りの姿勢を持つ上映会に限られていたようです。しかし、これがもらえる上映会ともらえない上映会では、作者の出品の意気込みも違います。
最近では、横浜の大動画上映会と、札幌の小アニメーション大感激祭がこのアンケート総集編の出品者への配布をずっと続けていただいています。



